迷霧の陥穽 第六話
窓際の白いカーテンがゆらりと揺れた。同時に微かな風が室内に入り込んでくる。病室というのは何処も変わらず、無機質だった。
一人部屋の中央には、無骨なパイプベッドが置かれ、その上に一人の少女が横たわっていた。腕には点滴が施され、頭上左側に置かれた心電図が規則的に波を打っていた。
傍らには中年の男女が座っていた。少女の両親だ。母親は少女の左手を握り必死に何やら祈っていた。父親は、ただ黙って少女の姿を凝視している。
ベッドの名札には『真鍋瑞穂』と記されていた。
——瑞穂は暗闇の中に居た。
「ここは……何処?」
辺りを見回しても、何も見えなかった。自分がどちらを向いているのか、正常なのか逆さまなのかさえ分からなかった。
「オマエノタマシイハ……」
不意に声が聞こえてきた。否、聞こえたというのは正しくなかった。どちらかと言えば、脳に直接響いてくる。そんな感じが正しいだろう。
「誰?」
「オマエノタマシイハ、ヨミニカエサレル」
「え?」
「カエサレルノダ」
何の事か分からない瑞穂。そして言い知れぬ不安が心を締め付けた。
「黄泉って何よ。帰されるって何?」
「オマエハモドレヌ」
「戻れない? 何処に?」
「モウ、アトモドリハデキヌ」
「何言ってるのよ。私は彼の元へ帰るの……帰るのよっ!」
「デキヌ」
「嫌っ、嫌よっ」
瑞穂は両手を振り回し、叫んだ。だが、その声は闇に打ち消されていった。
「スデニ、テオクレナノダ」
「嫌っ、私は生きたいの! 彼と一緒に、生きたいのよ」
「ナラバ、我トケイヤクセヨ」
「契約?」
「イキナガラエタイノナラバ、我とケイヤクセヨ」
「良いわ、生きられるなら契約でも何でもしてあげる」
「ヨカロウ」
手を繋いだまま、瑞穂は微笑んでいた。不気味な輝きの瞳が、京平を見詰めていた。
「お別れって……どういう?」
「そのままの意味よ」
言って、更に強く京平の手を握る瑞穂。それは女性の力とは思えない程、強く、痛いくらいだと京平は感じていた。
「み、瑞穂? 俺には……さっぱり」
「ふふふ、まぁいいわ」
再び笑む瑞穂に、京平は疑問と不安が入り交じった。目の前の社が何かを語りかけてくる。そんな感じさえした。
と、瑞穂は繋いでいた手をふっと離すと、京平の後ろに回り込み、背中を強く押した。不意をつかれた形になった京平は、バランスを崩し社の前へと押し出されてしまった。両足が水に浸かった。
「な!?」
「さよなら、京平」
背後でそんな言葉が投げ掛けられた。上半身を捻り、瑞穂の方へと視線を向けた京平。次に足を向けようと試みたが、動かなかった。深い訳ではない、ほんの数センチ……くるぶしの上が少し浸かる程度なのに、持ち上げる事さえままならなかった。
「な、足が……瑞穂!」
「……私は、生きたいの」
「そ、それが……何だよ」
「だから、ごめんね」
「訳、わかんねぇぞ、オイ」
「……」
京平の問いに、瑞穂は何も答えず、ただ微笑むだけだった。
「瑞穂っ、何か言えよ……ぬわっ」
京平の足下が沈み始めた。視線を瑞穂から自らの足下へと移す京平。
「!!」
言葉が出なかった。
両足にまとわりつく青白い手が、無数にあったのだ。細い、今にも折れそうな指が、ワサワサと這い出て京平の足首を掴む。そして、外側から這い出た違う腕が、ふくらはぎ辺りまで伸びてきた。
必死でその手を、腕を振り払うが、虚しく空を切るばかりだった。
「くそっ……くそっ」
そうしてる間にも、自身の身体は沈んで行った。
「瑞穂っ! 助けてくれ! 瑞穂!」
京平は上半身を再び彼女の方へ向け、叫んだ。だが、瑞穂はただ黙って彼を見詰め、冷たく微笑んでいた。
「瑞穂っ! お前……ぬわ、くそっ、放せ!」
下半身が水中に沈もうとした時だった。何か大きなモノが、底から浮き上がってくる感じがした。黒いモノだ。
「なっ!」
次第にその陰が何なのか鮮明になってくる。
ぬちゃっ……粘着質なモノが僅かに水面から顔を出す。黒く、細い海藻にも似たものだった。そして、半分ほど出た時に京平は確信した。
頭だ……人の頭が浮かんできたのだ。髪の毛はくしゃくしゃで長く濡れ、頬はこけ、目の周りは窪んでいる。男か女かさえ判別がつかない程だった。
その顔が、京平を凝視する。更に恐怖心が増す。
「くそっ、瑞穂!」
京平が三度彼女を見ると、瑞穂は右手を軽く振った。
「バイバイ、京平」
そう笑って言うと、その姿がふっと消えていった。
「み、瑞穂!?」
自分は夢でも見ているのか? そんな錯覚さえ覚えた京平。だが、それは現実だと直ぐに引き戻された。今感じている痛みや感覚は夢じゃない、と。
そして、また身体が沈んでゆく。青白い手は胸の辺りまで届き、両腕を拘束しようと伸び始めていた。不気味な顔は、首の部分まで出て口が半開きの状態になっていた。そして、その口からは既に言葉ではない呻き声が発せられている。
「くそっ」
必死にもがくが、その行動は徒労に終わる。京平の身体は既に喉元まで沈み、瞳は光が失われていった。ただ一つ、瑞穂に向けられた恨みは消えぬままに……。
――三日後。
窓から入る柔らかい日差しの中、瑞穂はゆっくりと目を開いた。
見慣れない白い天井、鼻をくすぐる消毒液の匂い。首を左に振ると、自分の手を握る女性の姿が飛び込んできた。
「……お母さん」
連日の看病で疲れ、眠っていた母。その声に、一度ピクリと肩を振るわすと母は固く閉じていたまぶたを開いた。
「お母さん」
もう一度、母を呼び握られた手に力を込める瑞穂。母の瞳に生気が戻り、次に止めどなく涙がわっと溢れ出す。
「み、み……瑞穂」
母は瑞穂の手を握ったまま、瑞穂に頬ずりし、そして、力の限りに抱き締めた。
「……お母さん」
暖かな温もりを感じながら、瑞穂もまた手の平に力を込めた。
ややあって、病室のドアが開く。院内の一階、片隅にある喫煙所から父が、俯き加減で戻ってきたのだ。
入り口の方へと視線を移す瑞穂。
「お父さん」
「!!」
忘れようにも忘れられない、娘の声が両耳の鼓膜を振動させた。床に落としていた視線と顔を持ち上げ、窓際にあるベッドへと向ける。
「……み、瑞穂」
視線の先には、にっこりと微笑む瑞穂の姿があった。この瞬間を、一体何日待ち続けただろうか。一時は、このまま目を覚まさないかもしれない、と言う最悪の事態まで想像していた。しかし、それは見事に裏切られ、最高の形となって姿を現したのだ。
父は一歩づつ、ゆっくりと瑞穂の元へと歩み寄って行った。その瞳には母と同様に、涙が溢れ、流れていた。
「母さん、瑞穂が、瑞穂が……」
母と瑞穂の顔を交互に見、言葉に詰まる父だった。
そして、それを祝福するかのように、カーテンが何時になく大きく揺れ、清々しい風と緑の匂いを運び入れてきた。
瑞穂が、意識を取り戻して一週間が過ぎた。事故当時、外傷は殆ど見受けられなかった瑞穂には、院内を歩く事は、そう困難な事では無かった。
そんなある日、瑞穂は夜中にふと目を覚ました。月明かりのせいか、病室は青白く照らし出され、見慣れた天井がどんよりとして見えた。枕元に置いてあった、電波式の小さなデジタル時計に目を移すと、二時〇三分と標示されていた。
特別、寝苦しいという訳でもないのに、何故こんな時間に? そう瑞穂は思った。
上半身を起こし、ふっと息を一つ吐くと、瑞穂はベッドからするりと抜け出た。ちょっと院内を歩いてみよう。そんな衝動に駆られた瑞穂は、ドアを開け、廊下に出た。非常口の緑色と、必要最低限の灯りで廊下は薄気味悪い。やはり微かな消毒液の香りが、瑞穂の鼻を突いた。
「夜中って、どんなトコも不気味」
言葉とは裏腹に、ちょっと期待感が込み上げてくる瑞穂。
エレベーターで四階から一階に降りる。総合病院であるここは、各科ごとに待合所が設けられていた。何時も人で溢れている待合所が、ガランとしていた。特に薬局の前は人が居ないと、こんなにも広いのかと感じさせられた。
辺りを見回すと、一番後ろの方に人影が一つあった。
「?」
瑞穂は視線を流すように移し、再び正面に戻した。人影に構わず通り過ぎ、待合所抜け反対側の喫煙室へと向かった。たばこを吸うわけでは無い、目的はその横にある自動販売機だ。
薄暗い中で、二台の自動販売機は煌々と輝いていた。何の変哲もない、ただの自動販売が瑞穂には眩しく感じる。
「どれに、しよっかなぁ」
赤いペイントのされた販売機の前に立ち、瑞穂は楽しそうに選ぶ。うん、これにしよう、程なくして決めたのは、炭酸飲料だった。手に取り、ひんやりとした感触が手の平から伝わってくる。すると、瑞穂はもう一本、缶コーヒーを買った。
薬局の前の待合所に来ると、まだ居る人影へと歩を進めた。相変わらず薄暗いが、その人影は少年のようだった。瑞穂はその少年の側まで来ると、缶コーヒーを目の前へ差し出した。
「こんばんは」
そう言葉を発すると、俯いていた少年は視線を瑞穂の方へ向けた。
「あっ」
「飲む?」
瑞穂は差し出したコーヒーを、少年の前で左右に一度振った。少年は微かに笑うと、頷いた。
「ふふ、じゃ、これ」
「ありがとう」
「隣、いい?」
「あ、うん」
二人は並んで、薄暗い待合所の椅子に座った。少年は幼さの残る顔立ちで、深緑の半袖シャツに黒のジャージ姿。身長は知れないが、瑞穂より高いことは明らかだった。
プシュ、涼しげな音を立て、買ったばかりの炭酸飲料を開ける瑞穂。少年も続いて缶コーヒーを開けた。
「ねぇ、君……名前は? あ、私は瑞穂」
「え? えっと、僕は……健一」
「健一くんかぁ……あ、ごめん、私より年下、だよね?」
と言いつつも、その風貌から、瑞穂は健一が年下だと決めてかかっていた。健一はコーヒーを一口飲み言った。
「多分下、十三だし」
「あ、やっぱり……よかったぁ」
決めつけていたとは言え、ただの童顔だったらどうしようかという気持ちもあったので、健一の言葉は瑞穂に安堵をもたらした。
「ねぇ、健一くんは……」
続きを言いかけて、健一が口を挟む。
「健一でいいよ」
「あ、じゃぁ、健一は、どうしてこんな時間に?」
「別に……ちょっと寝付けなくて」
「じゃあ、私と一緒だ」
「え?」
「実はね、私……」
瑞穂は、自分が何故この病院にいるのか、事の経緯を健一に話し出した。何故、彼に話したくなったのか、瑞穂自身も分からなかった。ただ、無性に話さずにはいられなかったのだ。
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