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迷霧の陥穽 第一話

 庭先に吊られた風鈴は、早朝に数回揺れただけだった。青と赤の色が、渦を巻くような模様が入ったガラスの笠は、如何にも涼しげな印象を受けるが、それとは対照的に気温は上がり続けた。

 僅かな風を取り入れようと、家中の窓という窓は全て開け放たれていたが、その殆どは無意味に終わっている。

「あぢぃなぁ」

 半袖のシャツに、七分丈のズボン。京平は、茶の間に置いてある扇風機の前でぼやく。

 人工的に作られる空気の対流はあるのだが、生暖かい風しか届かない。額を伝う汗が、その風で後方に向きを変える。身体にまとわりつくシャツが、不快に感じた。

「母さん?」

 茶の間の奥にある台所で、洗い物をしている母、恵子に話しかけた。

「ん~?」少し不機嫌そうな声が返ってきた。

「エアコン買おうよ」

 こう毎年暑くては、何もやる気が起きない。高校に入って二回目の夏休みも、既に後半に突入していた。が、課題はおろか、ろくに出かける事もしていなかった。

「何処にそんなお金があるのっ」更に不機嫌な恵子の声がした。

「今時エアコン無いのなんて、うち位なもんだぜ」

「だから何? 他人は他人でしょ」

「でもよぉ、最近のは安いし」

「そこまで言うんだったら、アンタが買いなさい」

 洗い物を終え、恵子がエプロンで手を拭きながら茶の間に出てきた。そして、溜息混じりで続ける。

「だいたい、バイトもしない、勉強もしない。文句だけは一人前ってどうなのっ」

「でもよぉ、暑いんだよ」

 京平は扇風機を背にし、仁王立ちの母親を見上げた。右手を腰に当て、また一つ溜息をつく恵子。確かに、自分でもこの頃は暑いと感じてはいたが、敢えて意識しないように心掛けていた。暑さ対策もそれなりにしてきたつもりだ。背中まである長い髪は、出来るだけまとめ、服装もいやらしくならない程度に薄くした。最近では、長年手入れをしてきた髪を、切ろうかどうか迷ってさえいると言うのに……このバカ息子は、エアコンが欲しいと言ってのける。

「ったく、贅沢は敵よ。馬鹿言ってないで、郵便取ってきてちょうだい」

「え〜何でだよ」

「いいから早く」

 京平は渋々と身体を起こし、玄関へ向かった。

 銀色でアルミ製の郵便受けが、門に取り付けられていた。正面から蓋を上に跳ね上げると、中には新聞と数通の郵便が見える。

「父さん、新聞忘れてるし」

 京平は新聞を小脇に抱えると、入っていた郵便を一枚づつ確かめた。その殆どが請求書の類だった。が、その中に妙な封筒が混じっていた。

「?」

 何処にでもあるような茶封筒で、裏には差出人の名前が無い。京平は表を返し宛名を見る。

「俺宛?」

 封筒には、京平の名前が書かれていた。ただ、住所も切手も無く、名前だけが書かれた奇妙なものだった。小首を傾げながらも、京平は家に戻った。

 新聞と郵便を茶の間のテーブルに置き、例の封筒を持って二階の自室へ向かう。

 大きく開けられた窓からは、相変わらず風が微塵も入ってこなかった。蝉の声が一層五月蠅く感じられる。京平は、窓の側にある机の上へ、一旦手に持った封筒を無造作に置くと、腕を組み、少し左斜めになった封筒をジッと見つめた。

 ふっと一つ溜息をつき、右奥に置いてあるペン立てからペーパーナイフを抜いた。再び封筒を手に持ち、ペーパーナイフを入れ、封を切る。注意深く中身を見ると、そこには四つ折りになった紙が入っていた。京平はそれを取り出し、ゆっくりと机の上に広げた。

 少し茶色がかった紙、古ぼけた感じの『細工』を施したと見て取れる。なんて幼稚な、京平はそう思った。A四より大きめの紙には、町の地図とおぼしき物が記されていた。

「何だ?――これ」

 再び腕を組み、その地図をジッと見つめた。が、その答えは一向に出るはずもなく、ただ時間だけが、虚しく蝉の声と共に消えていった。

 誰かの悪戯だとしても、意味が分からない。京平は、その地図を横にしたり縦にしたり、そしてまた上下逆さにしたりと、あらゆる角度から眺めた。何処となく見覚えはあるのだが、確信が持てなかった。

 それから数分後だろうか、机の上で充電中の携帯電話が、震えながら着信音が鳴った。京平は一端地図の事は忘れ、携帯電話を手に取った。

「!」

 着信表記を見て、京平は驚いた。『真鍋瑞穂』の名が記されていたからである。彼女は、入学当初から、京平が密かに想いを抱いていた女性でクラスメイトだった。以前、学校行事で一緒に役員をやった時、互いの電話番号とメールアドレスを交換した。だが、それが終わるとぱったり連絡しなくなった。理由が無くなったからだ。自身、何か理由が無ければ話すという行為が、何処か気恥ずかしいとも感じていたからである。『勇気』が無い。と、言われれば否定は出来ないが、その勇気を振り絞る時が遅すぎた。彼女は上級生の『彼』が出来てしまったのだから。

 その彼女から、今こうして連絡が来ている。嬉しさと不安の入り交じる中、京平は左手の親指で通話ボタンを押し、電話に出た。

「もしもし?」

「あ、もしもし京平?」

 気さくな態度が見える口調で、その懐かしい声が聞こえてきた。

「あ、ああ……久しぶりだね」

「そうね、元気だった?」

「まぁ、ぼちぼち」

 落ち着いた口振りで答えるが、手にはしっとりと汗が滲んできていた。

「でね、久しぶりであれなんだけど」

「ん?」

 京平は思った。『あれ』とは一体何なのか。何気なく使う日本語であるが、深く考えればその意味は不明に近い。だが、そんな思いはお構いなしに瑞穂は続きを発した。

「えっと、ちょっと相談事があったんだけど」

「相談?」

「うん」

 瞬間、心臓の鼓動が跳ね上がった。彼氏ではなく、自分に相談事……自分が瑞穂にとって特別な存在なのでは? そう感じずにはいられなかった。京平は左手に持った携帯電話を右手に持ち替える。

「あのね、変な話なんだけど。京平の所に、封筒届かなかった?」

「へ?」

「封筒よ、茶色くて差出人不明なの」

 言われて、思い当たる物が、今まさに自分の目の前でさらけ出されている。そして、同時に、相談と言われた事がこの封筒に関係があるのだと気が付かされた。急激に鼓動は下がり、浮かれた気分は冷めていった。京平は、封筒を手にとって言った。

「ああ、あるけど」

「うそ! あるのっ?」

驚きの声が、受話器を通して鼓膜を揺らした。

「嘘言ってどうする」

「そりゃそうよね。でさ、中身は何だった?」

「え?」

「中身よ。何が入ってたの?」

 急かすように瑞穂が言葉を並べた。中身を確認してないのだろうか? 京平はそう思った。

「古ぼけた町の地図が入ってた」

「え? 私のと違う……私のは何かこうウネウネした感じで」

「ウネウネ?」

 必死にジェスチャーしてるであろう姿が、京平の脳裏に浮かんで、それが少し滑稽に思えた。

「ん~何て言うかな……そだ、これから京平んとこ行ってもいい?」

「え?」

「見せた方が早いもの。それじゃ、そゆ事で」

「あ、瑞穂」

 言ってはみたが、既に通話は切れていた。京平は電話を机の上にある地図の横に置き、椅子に背もたれに身体を預け、天井を仰いだ。

 約三十分後、瑞穂は京平の部屋に居た。

 彼の部屋には小さなテーブルがあり、二人は向かい合う様に座っていた。そのテーブルに広げられた互いの手紙。瑞穂は、興味深げに京介に届けられた手紙を手に取った。

「へぇ、京平のはまんま地図なのね」

「まんまって」京平は苦笑した。

「だって、町内マップみたいだし」

 笑う瑞穂。町内マップ――それは京平も感じていた。だが、それが何処を記したのかさっぱりなのだ。方位を示す記号も無い。一つだけあったのは、妙な二重丸の印。瑞穂もその印には直ぐに気がついた。

「何の印だろうね。コレ」

 右手人差し指を指す瑞穂に、京平は、「さぁ」と首を傾げるだけだった。

「でさ、私のやつ見てみてよ」

 瑞穂は自分の持ってきた手紙を京平に見るように即した。彼女が持ってきた物も、京平のと同じく、何処かしら細工されているのが見られた。紙は薄く、少し黄ばんでいる。肝心の中身だが、確かに電話では説明が困難だと京平は思った。大きさは、京平に送られてきた物とほぼ同等で、紙面を埋めつくようにうねうねとした曲線が描かれていた。

「何だと思う?」

「ん〜ぱっと見は、洞窟か何かの地図って感じだけど」

「え?」

「よくやったゲームで似たようなの見た事あるし」

 京平の言葉に驚く瑞穂。普段ゲームなんてやらない瑞穂には意外な答えだったのだ。

「ゲームねぇ」

「何だよ」

 何だと聞かれて、感じたままを言っただけなのに、真っ向から否定された格好の京平。多少憤慨しながらも言葉を続けた。

「でも、ホント似てんだよ」

「ふ~ん、でもさ、仮にそうだとして何の為にこんなモノを?」

「さぁ……でもさ、こう考えたらつじつまは合うぞ」

「え? 何々?」

「例えばだけど――」

 京平は二つの地図を並べて、自分の立てた仮説を語り出した。

「俺の地図が何処かの町の地図で、瑞穂のが洞窟」

「うん」

「で、俺の地図上の二重丸がその洞窟の場所だったら?」

「え?」

「だからさ、この地図は二つで一つって事さ」

「!」

 大胆な仮説に一端感心した瑞穂だったが、大胆さ故の疑問も多い。

「でもさぁ」

「何だよ」

「それなら、どうして二枚一緒に入ってなかったの?」

「へ?」

「二枚で一つなら、別々に入れる意味無いじゃん」

 瑞穂の言ってる事は最もだった。偶然か必然かは分からないが、二枚の地図が今こうして揃っているからこそ立てられる仮説であり、そのどちらかが欠けている場合には意味をなさないのである。

「そりゃそうだよなぁ」

「でもさ――」

「ん?」

「その考えもアリかもね。ふふふ」

 言って笑う瑞穂の顔に、京平は一瞬心を奪われた。

「じゃ、じゃあこれは宝の地図かもな」

「そうかもね」

 そして次の瞬間、二人は顔を付き合わせて笑った。ひとしきり笑った後、事態はそこでお開きになる、そう京平は思っていた。誰か分からないが、彼女に会わせてくれた偶然の出来事だけで満足だったからだ。

 ――だが、違っていた。

 瑞穂は、二枚の地図を交互に見ながら言った。

「ねぇ、探してみない?」

「え?」

 京平の視線の先で瑞穂は笑っていた。

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